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“便利であること”に想いを馳せる ~ スローフード宣言 食べることは生きること#01

“便利であること”に想いを馳せる ~ スローフード宣言 食べることは生きること#01

森谷司麻
森谷司麻

あるサンプル本との出会い

2022年9月のこと、いま暮らしている地域との縁を繋いでくれた友達に、出版に先駆けて校正途中の興味深いサンプル本を紹介いただいた。その本はオーガニックの母とも呼ばれるアリス・ウォータースさんの著書、「スローフード宣言 食べることは生きること」という本で、実体験を交えた物語は、あたりまえのようで、普段の生活の中で忘れてしまっている大切なことを教えてくれたように感じた。

スローフード宣言
半世紀前——カリフォルニア州バークレーの小さなレストランからはじまった「おいしい革命」は、多くのアメリカ人の食習慣や食べ物に対する考え方を変え、全米の地産地消を広げ、世界中へと広がった。この本はその革命を引き起こし、料理人であり活動家でもあるアリス・ウォータースさんが、生涯のテーマである「スローフード」の世界観について初めて語られた本。食べることが人と暮らしと世界にどのような影響をもたらしてきたか、その道筋を変えるために、私たちにできる事がありました。

私は子育てを通じて、食が疾患や体調不良を回復させるということを実感したことがきっかけで、もっと食の根本に携わりたいと思うようになり、山梨県上野原市に移住してきた。そうして食に携わるうちに、畑から収穫した野菜を使った料理を提供するスタイルが理想的だと体感し、今はそんなスタイルのカフェの準備を進めている。

この本から受け取るものは人それぞれだと思う。ただ、私が受け取ったことを言葉にしていくことで、それがまた別の誰かの日常の一部になることもあるかと思い、書き連ねてみることにした。

便利であること

「便利であること」は、すべてが努力なしに、まるでそよ風のように簡単になされるべきだというファストフード的価値観です。スマートフォンを数秒間触れば、ウーバーが玄関までブリトーを届けてくれる。高速を下りてドライブスルーに入れば、一瞬でチキンナゲットが手に入る。「速くて安くて簡単」でいえば「簡単」にあたる、効率よく楽しみたいという価値観です。便利さは暮らしを楽にしましたが、その中毒性には問題があります。「簡単に済まない仕事に気を揉む必要なんてある?」、「そもそもどうしてやらなくちゃいけないんだっけ?」と私たちに語りかけてきます。希望や自信、そして自分のことを自分でやる力を手放すよう誘惑するのです。

海士の風出版「スローフード宣言 食べることは生きること」
スローフード宣言

この本の目次の一つ、私の人生で感じた小さな「便利であること」について想いを馳せている。

いろいろな「便利」があるけれど、私の仕事である「料理」「食」に関連した「便利」について感じていることを書いてみる。むかし、大地に根差した義祖母と一緒に暮らすまでは割と鈍感に「便利」ということを享受していたように思う。

世の中にはいろいろな「便利」がまるで雨のように降り注いでいて私たちにしみ込んでいく。
しみ込んだ「便利」は、はじめは快適を感じさせてくれる珍しいものだけど、慣れてくると生きるために呼吸をするのと一緒で、止めることができなくなる。これが快適で、止めたら死ぬみたいな感覚が芽生えてしまう。少なくとも私はそうだったと思う。

24時間のコンビニも、いつでも連絡が取れる携帯電話も、スイッチオンでご飯が炊けることも、すべて降り注いだ雨だったものが今や、呼吸のようなものに変わってしまった。
この「便利」は、私たちに時間的な余裕を生み出してくれたけれども、その裏側にある背景に思いを巡らすことをしなくなり、その土地で培われてきた風習を希薄なものにしていったように思う。

例えば料理。これは料理人の仕事をしているので一番感じるジャンルである。

いまはケータリングをメインに料理を提供しています。

これを書いているのが年末なので、いま感じるところなのだけど、少し以前までは年末年始と言えば、すべての商店が皆正月休みを取っていて(閉まっていて)、餅を買い忘れた!洗剤が足りない!!などという惨劇が起こったものだった。それで子供のころは、結構しっかりしていた私がよく買いに走らされた年末の思い出がある。その間を過ごす準備をするために、年末は多忙なのがあたりまえだった。

でも今は「年末31日まで年始は1日から」なんていう店が殆どだから年末年始感がない。あれが足りないという惨劇が起こっても店まで慌てて走らなくてもいい。明日も店は空いている。

日々の料理もまた然りで。
スーパーに行けばすべてがそろっているという「便利」に慣れてしまっている日常では、
今日は何があるからこれを作ろう、ではなく
今日はこれを作るからあれを買いに行こう、というスタンスになった。

無農薬ジャガイモのポテトサラダ

スーパーに行って目的のものを買うのは実に当たり前で、その食材の旬がいつなのかは気にしていなかったし、知らないものもあった。便利な人生においては、旬など知らなくても問題がなかった。

冬でもトマトを、夏でも大根を買える。便利で良いと感じることさえも忘れ、年中あるのが普通だった。さらに言えばどんなふうに畑で育つのか、どんなふうに実るのか、なんてことにも無知だった。いつだったか、地べたに落花生が広がっているのを見て、こんな風に実るのか!と驚いた覚えがある。

そんな「便利」純粋培養で生きてきた私が、なぜいま「便利」を手放す方向に進んでいるのか。

大地に根差した義祖母との出会い

かつて嫁に行った先の義祖母は、バリバリの大地に根差した人だった。畑を耕し野菜を育て旬のものを食べて生きている人で、義祖母の時代は皆そうやって生活していた。

彼女の生活は「便利」とは無縁で、すごく多忙だった。朝早くから畑に出て、陽が暮れるまで野菜たちの世話をする。間引いた野菜で料理をし、できうる限り使い切り、捨てるものは畑に戻してたい肥にして、土に還す。衣服は大切に扱い、破れては繕い、ほどいては仕立て直して、最後は雑巾にして使い切っていた。だから彼女はゴミを出さないし、太陽をお天道様と呼び、大いなる自然と風習に対する感謝と共に生活があったように思う。

ひ孫と枝豆を仕分ける義祖母

そんな義祖母と出会い、野菜がどうやって育つのかを知り、その過程も楽しみたいと思うようになった。お店で簡単に買えるものも、一つひとつ手作りして、それを使って作った料理を食べてもらい、喜ばれるのもまた楽しい。

本にはこのような一説もあった。

便利教の崇拝は、難しいことが人間の経験として大切だという認識を許さない。利便性の中にあるのはただ目的地のみで、旅が欠如しているというのに。自ら山を登る行為は、頂上までトロッコで運ばれるのとは本質的に違う。私たちは、成果至上主義の人間に成り下がろうとしている。自分たちの人生経験をすべて、トロッコで運ばれるだけにするリスクにさらされているのだ。

海士の風出版「スローフード宣言 食べることは生きること」

私が畑で野菜を育て、料理することも、経験となる旅の一つだと感じている。(つづく)

1月のFarm to table

大根を収穫しました。凍った大地にずんっと刺さってなかなか出てこない力強さ。人参は他の方の畑からの頂き物。土の中で何かに当たったのか、くるくると可愛い渦巻き型。

大根
人参

畑にはこんな様々な形のお野菜があったりして、それが自然です。農薬や化学肥料はつかっていないから、皮ごと頂けます。

お餅をつき
お雑煮

お餅をついて、お雑煮になりました。

Writer

森谷司麻

普段は上野原の小さなお店スペースで、無農薬野菜を使用したお惣菜の販売や店主のケータリングの仕込みなどをしています。

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森谷司麻

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